【補足】
 上杉景勝については、上杉神社で少し掘り下げてみたが、肝心な上杉鷹山公については自分の歴史観の中に登場してこなない。そこで勉強のためにネットでいろいろと検索してみた。

上杉藩の財政破綻と十代藩主上杉治憲(鷹山)の藩政改革

 六代藩主吉憲、七代藩主宗憲、八代藩主宗房、九代藩主重定の治世に藩財政の窮乏が進んでも家臣の知行借り上げや商人からの借金だけで何の目新しい積極策を打たなかった。
 藩主交替毎に手伝い普請を課せられ又大雨や大凶作で藩財政は破綻へと転げ落ちた。筑前黒田家に嫁いだ豊姫の推薦で日向高鍋藩より養子に迎えられる。鷹山10歳の時である。さらに財政難がつずき九代藩主重定は幕府に藩の返上を決心し尾張宗睦に相談、重臣会議の結果重定は隠居。治憲(鷹山)が17歳の時に十代藩主になる。治憲(鷹山)が藩主に着いた頃の借財が20万両といわれ56年かかって治憲(鷹山)は藩財政の再建を成し遂げた。
 治憲(鷹山)の藩主在任中にすべての改革が成し遂げられたわけではなく、隠居後も改革が行われ努力が数字で現れるようになり藩の財政を立て直したのである。借財の返済が終わった時には、5000両の蓄蔵が出来たといわれる。

 十一代藩主治広に「伝国の辞=心得三箇條」を伝授し、後継者を教育する為の十四箇条の心得を示し、その最後に                                      
       「
為せば成る為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり...」 の文言がある。

 この倹約令についてメモすると、別ページになってしまうが「大名行列の簡素化」「贈答の禁止」「食事の制限」「着用衣類の制限」など細かな項目が定められている。この「大倹約令」に反対した老臣は処罰を与えられている。
 一方荒廃した農村の立て直しにも率先して力を入れ、干ばつの時には「雨乞い」をし、「籍田の礼」・・・藩主が一鍬入れ、家臣がその倍、倍と鍬入れし農業を推進したという。
 また増収のための産業振興として米沢織を振興し、青芋、漆、蝋などの特産物から、麻などの織物工業を推進したという。

 今回、会津若松と米沢とをドライブしたが、何事にも華やかな会津に比べ、質素な米沢という感じが強烈に残ったのである。
【配置されている上杉家の廟所...十代の治憲が鷹山公である】
【中央に位置する謙信公のお墓】
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<添付写真 8枚>
 米沢藩と会津藩とは距離的に近い。会津藩主であった上杉景勝が1601(慶長6)年米沢に移封され、謙信公の遺骸は米沢城本丸に移され、祠堂を造り安置された。城外避難所としてこの場所が定められた。1623(元和9)年、上杉景勝公逝去の時当地が廟所とされていたが、明治政府は「破城令」を発し、米沢城は解体された。

 謙信公は中央に移送されており、祠堂の配列は、中央に謙信公、左に景勝公、4代、6、8、10鷹山公...右に3代定勝公、5代、7、9...と配置されている。遺体は2〜8代までは火葬であったが、9代重定公については、鷹山公が焼くに忍びずとして土葬にしている。左右の屋根の上に丸い飾りのある祠堂が、それに該当する。

 境内には老杉が多く、戦時中には供出されたが、樹齢400年を越す杉で覆われている。昭和59年、米沢藩上杉家墓所として指定された。
【赤穂浪士のことについてふれていたガイドの話...】
【右側の二つの屋根の飾りにご注意...】

●上杉家墓所       edit '07.6.18