【蛇足】
 上杉神社は当時の米沢城の跡です。明治政府の「破城令」により、城は解体されましたが現在は上杉神社として多数の観光客を呼び寄せています。戦国時代の上杉謙信は勢力拡大のために、武田信玄との戦いなど華やかな時代絵巻として登場しますが、江戸時代になり困窮・疲弊した藩の財政を立て直した話は、テレビドラマなどの話題になりません。
 米沢藩は、赤穂事件の関係で脚光を浴びてしまいますが、藩の財政内部事情は一般庶民にとっては関係のないことです。一般庶民にとっては藩主が誰であろうと、常に年貢で絞られるだけ絞られて武士(治政者)の生活を支えたにすぎません。藩のお家断絶で路頭に迷うのは庶民ではなく武士階級です。「世が世であったら...」とよく言いますが、自分の先祖の身分については現在は無関係なことです。殆どは庶民階級であり、私たちは一握りの「治世者」側ではありません。
 考えてみると新撰組とて、特権階級である武士になりたくてあがいたではありませんか。豊臣秀吉が太閤記として喝采を浴びる所以は、庶民からの評価ですよね。「士農工商」という身分は現在、表面だっては出てきませんが現実問題として自分の先祖の隠れた身分が、自分たちの今の生活の根底に生きているのではないでしょうか。ただ、こうしていろいろな歴史の背景を探ってみると、責任者の後始末として家来の誰かが全責任を負い割腹している現実が、非常にむなしく思われました。何故責任者が自分の非を認め、割腹しないのでしょうか。それが封建制度だといえばそれまでですが、藩の責任をとって割腹して果てた家老達の虚しさが、何となく感ずるような気がしたのです。
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<添付写真 10枚>
 さてと困ってしまいました。上杉家の内情をメモするとなると大変なことに成ります。今回は自分の歴史の勉強です。いろいろな不足の部分については、この説明をご覧になっている方の知識で補って下さいませ。

 上杉謙信は妻帯者がなく当然子供がおりません。上杉景勝は謙信の養子となりましたが、1578年謙信が急死すると、家督を争いをします。その後、織田信長と戦いますが、信長の死後、羽柴秀吉に服属し晩年には五大老となります。
 1598年、120万石に加増
され会津に転封します。この時、謙信公を慕う僧侶・農民まで会津へ移ったといわれます。 しかし、秀吉の死後、徳川家康の上坂要請も拒否し、石田三成との関係から会津征伐の起因をつくり、伊達藩などと交戦しています。その後関ヶ原の戦いで家康に降伏し、1601年会津領を没収され、米沢30万石に減封されます。大阪の陣では二度とも参陣しますが、1623年米沢にて没。享年69歳。家督は定勝継承されます。

 1664年、4代藩主上杉綱勝が急死。子供がなかったので保科正之に相談し、そのとき吉良上野介に嫁いでいた綱勝の妹富子の子で綱憲が跡継ぎとなりました。上杉は名門、吉良家も名家でしたが、まだ若い吉良上野介を説得し上杉家の養子にすることを承知させました。上杉家は存続し、30万石から15万石に減封されました。上杉家は吉良家に感謝し、高家という職柄上費用のかさむ吉良家に対して援助することになります。

 しかし1702年、突然おきた赤穂事件で、上野介は斬首。赤穂浪士を討つための準備中に、幕府より「親の敵として騒動を起こさぬように...」と固く釘をさされ、庶民から冷笑を浴びせられることになってしまいました。
 忠臣蔵では5代藩主上杉綱憲の前に「上杉家の御為...」と家老の色部又四郎が立ちふさがりますが、完全な歌舞伎の創作と言われます。上杉神社にはこの赤穂浪士事件のことが「迷惑なり...」という受難の碑があるのだそうだが、今回は見逃してしまいました。

 以上のことをメモしたら、肝心な上杉謙信公のことが薄れてしまいました。短時間で米沢を散策しようなんて、無茶な事です。次回、訪れる機会があったらもっとテーマを絞ってみたいと思います。

 上杉鷹山公の「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり」でご勘弁下さりませ... m(_ _)m 
【米沢城のお堀端】

 

【突き当たりにある上杉神社】
【上杉家再興の10代藩主鷹山公】

●上杉神社        edit  '07.6.18