< 4250 >
【維新後の松平容保】
 戊辰戦争後鳥取藩に預けられ、東京に移され蟄居。嫡男容大(かたはる)が家名存続を許されて華族に立てられ、容保はそれからまもなく蟄居を許され、1880年(明治13)には日光東照宮の宮司となる。明治26年(1893)東京・目黒の自宅にて肺炎のため死去。享年59。
 なお、容保は禁門の変での働きを孝明天皇から認められ、その際書簡と御製(和歌)を賜ったのだが、彼はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。また幕末維新についても周囲に何も語ることはなかったと言われる。

 1928年(昭和3)、秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と勢津子妃松平容保の六男・恒雄の長女=雍仁親王妃勢津子)の婚礼がとり行われた。会津松平家と皇族の結婚は、朝敵と汚名を着せられた会津藩の名誉が回復されたことを意味していた。         <資料はパンフレット・Wikipediaを拝借しました>
【正面の門が鉄門(くろがねもん)で、本丸に通じています。扉は全部鉄で覆われており、戊辰戦争時には藩主容保が指揮をとった場所です】
【藩主 松平容保公 28歳】
<添付写真 12枚>
 幾多の変遷を経て、悲劇で幕を閉じた名城である。「伊達政宗」「上杉景勝」らがこの地を治めているが、上杉景勝の時代に120万石が与えられている。「蒲生家」「加藤家」「保科家」と代わり、最後に「松平家」がこの地を治めた。
 1862(文久2)年に容保が京都守護職を命じられ、時代の流れに翻弄され悲劇の幕が切って落とされたのである。1868年鳥羽・伏見の戦いがあり、「容保(かたもり)」は会津に帰り「奥羽列藩同盟」が成立するが、戊辰戦争でやぶれ落城する。

 明治維新の戦争で「新撰組」など、京都から落ち延びてきた者達は函館まで転戦し、新政府に自分たちの生き様を示したのである。その後鶴ケ城は一度解体されたが、旧会津藩士らの尽力で1965(昭和40)年に天守閣が再建され、今日に至る。天守閣までは5層からなるが、各階には歴史観として豊富な資料が陳列されている。なお詳しい史実などは、ネットで検索し入手して下さい。会津藩主「容保」は、維新後も生き延び59歳でこの世を去ったが、明治維新や戊辰戦争については殆ど何も語らなかったという。

 椿坂・武徳殿・武者走り・廊下橋・鉄門(くろがねもん)・月見櫓...など当時の様子が伺いしれる。天守閣から見える景色は素晴らしいものであるが、「白虎隊」が自刃した飯盛山は北東の方向に見える。
【駐車場はこの北門から入り、西出丸Pで約180台可能です。出口は一方通行でR118/121に出られます】
【武者走り...危急の際、大勢の人数が登れるように工夫された階段】

●鶴ケ城          edit '07.6.16