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<添付写真 11枚>
 慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心とみなされ、政府軍の仇敵になった。

 白虎隊は会津藩が組織した15〜17歳の武家の男子によって構成された部隊である。予備兵力でおよそ340名からなり、保持していた火器は旧式のものであったという。一番隊は藩主護衛の任にあたったが、悲劇にあった二番隊は「戸の口原(猪苗代湖)」で決定的な打撃をうけて潰走し、負傷者を抱えて郊外の「飯盛山」へと落ちのびた。ここから眺めた市中火災の模様を若松城が落城したものと誤認し、総勢20人が自刃、そのうち一命をとりとめた「飯沼貞吉」を除く19名が死亡した。
  
 実際には城は落ちておらず、途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ケ城に入場できた。篭城戦は約一ヶ月続いたが、会津城は降伏した。生き残りの飯沼貞吉は、維新後も生き抜き、飯盛山での出来事について語ったのは晩年だったそうで、そこから「白虎隊」の真相が現在に伝わったという。飯沼の遺骨の、一部は遺言より飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬されたが、飯沼が生き残った事に対して「武士しての最後を遂げずに、生き恥をさらしたとして非難され、隊の墓から離れた場所に建てられている。
 19名の落城誤認による自刃はあったが、全体の290名は生き延びたといわれる。これは新しい時代に向けて追い腹を切ることが禁じられたものと言われる。また、飯盛山には「会津藩殉難烈婦碑」がある。戊辰戦争時に自刃した武家女性や討ち死にした婦女子の約200名の霊を慰めている。

 薩長連合による新政府軍には「錦の御旗」があり、これに反する者は全部賊軍として扱われたわけです。歴史的ないろいろな背景については、不勉強ですが当時の戦争は陸軍だけで、白兵戦です。会津藩2万名に対して、政府軍14万名、つまり、兵の数が多い方が圧倒的に有利な訳で、連絡手段である無線通信があるわけでもなし、近代兵器をどしどし輸入した政府軍に対し、それに対抗すべきなにものもない藩の事情では火器が劣るのは当然です。刀で勝負をつけていたものが、一番嫌った鉄砲が相手ではかなうものではありません。

 近藤勇・土方歳三など新撰組も自分たちの夢を実現したくて戦争に参加したのでしょうが、生きた時代がそのような時代背景で、いまは理解が出来ませんが、平和でのんびりと生活している自分たちがこうした歴史の中の犠牲に乗っかっているのを忘れてはいけないのでしょう。それにしても、シーズンオフというのに観光客の多いことにびっくり。
 岩手にはこのような観光に値するような場所がありません。平泉・八幡平・三陸海岸など自然が観光の売り物です。歩いてみると長生きしますよ!!
【さざえ堂】

【南鶴ケ城望めば..砲煙あがる..痛哭涙を飲んで..且つ彷徨す
 宗社亡びぬ ..我がこと終わる..十有九人屠腹して僵る...】
※白虎隊が逃げのびて通った「戸ノ口堰」洞窟
【飯沼貞吉の墓】

●飯盛山      edit '07.6.14