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<添付写真 12枚>
 江戸時代、全国三百藩校の中で規模内容とも随一と謳われたのが、会津藩の学校「日新館」です。五大藩主「松平容頌(かたのぶ)」の時代に、家老「田中玄宰(はるなか)」によって計画され、五年の歳月をかけて鶴ケ城の西側に完成されました。幕末に飯盛山で自刃した白虎隊の少年達も勉学はもとより「ならぬことはならぬ」の精神で戦ったのです。
 戊辰戦争によって焼失してしまった「日新館」ですが、昭和62年に完全復元されました。


●日新館と「白虎隊」とは関連があり、つまり会津藩内の教育は、入学前の6〜9までの子供達に、「什の掟」として徹底的に教え込まれたといいます。幼年者の集団教育は、遊び仲間十人を一組として「遊び」をさせ「お話」する制度に発展させたので、幼い者でも年長者への尊敬・礼儀をおぼえさせ知識を得て行くことが出来たと言われます。

      ・年長者の言うことに背いてはなりませぬ
      ・年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
      ・嘘言(うそ)を言うことはなりませぬ
      ・卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
      ・弱い者をいぢめてはなりませぬ
      ・戸外で物を食べてはなりませぬ
      ・戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
         「ならぬことはならぬものです」
※補足...菅野権兵衛と郡長正        <右端は手紙に涙をする母親>
 菅野権兵衛は戊辰戦争の時に会津藩の家老をしていた。戦後、言われなき逆賊の汚名を一身に負い、会津藩全体の責任をとり切腹して果てた。戦争のために「日新館」は焼失し、藩の学問が閉ざされ、そのために家中の子弟から「郡長正」を始めとして、七名を九州豊浦「有徳館」に留学させた。育ち盛り食べ盛りで、激しい稽古や野外訓練などで空腹となり、母親宛に手紙を書いた。

 その手紙を読んで母親が叱責し、「柿を送れとは、なんたることか。父上の遺言を忘れたのですか。士道に背くのならば、もはや菅野権兵衛の子ではありません。母も子と思いません」...と返事が返した。本人はその手紙を大事に持っていたが、紛失し豊浦の塾生に拾われ、皆の前で読まれ貼り出されてしまい会津藩の戊辰戦争の敗因とまで言われ、ともに行った仲間からも疎外されてしまった。

 母への手紙なので何気なく書いた一言のために、会津藩全体の名誉を汚され、申し訳のために16才の若さで九州の地で露と消えた。
※補足...今の学校のように平等に学べる訳ではない。家の格式・禄高によって学ぶべき内容が異なっており、各教科に代々っていくつかの等級があり、試験に合格することによって進級することが出来るようになっている。
 教育の内容は儒学であるが、自然科学・数学的なものまで広範囲の教科内容であった。特に優秀な者や医師の子供達は医学寮があり勉学している。
 10歳から16歳までは「素読書(小学)」で勉強し、素読書を卒業した者は500石以上の長男と、成績・人物の優秀な者が「講釈所(大学)」に入学が許可された。さらに優秀な者は、幕府の「昌平坂学問所」や、全国遊学の制度もあった。

【残念ですが、少しピンぼけ...補正には限界がありました】

●日新館と白虎隊       edit '07.6.12