< 4010 >

●和泉式部旧跡について

 和泉式部と呼ばれたのは、和泉守橘道貞に嫁してからであり、美人な才女であった。父は大江雅致、母は平保衛の娘であり幼名を末詳といい冷泉皇帝に仕えていた。子供には小式部があり当時、紫式部、清少納言と共に三才女と謳われた歌人で感情に富み恋を現した歌が多い。
 寛弘元年頃は道貞とは別離の中であり、その後為尊親王実弟師宮とも恋愛したが、共に死別し、寛弘6年(1009)頃藤原保昌と結婚したが幸せではなく、離婚最初の夫橘道貞が陸奥守となり、陸奥の国にいるとき前非を悔い思慕の情、新たに訪ねてきたが逢うことも叶わず都に帰ったという。
 全国に百以上の伝説が地があるが、中世の頃、和泉式部の詠歌を運び歩いた一群があり、京都の誓願寺がその中心ではないかと史説にあり、また伝説の北限がここ繰目木ともいわれています、和泉式部に関しこの地に伝わる文献や伝説によれば二つの説がある。

 一つは彼女の生まれた所は此より西北四粁余りの泉、という集落で幼名を「カネ」と呼び、家が貧しかったので12、3の頃、泉の南二粁余りの栗の木屋敷、という地主の家に奉公に上がったが主人は毎朝夜の明けぬうちから「カネ」「カネ」と呼び起こすので眠くて堪りかね、次の歌を詠み返し言葉とした。

 「仏にはならねばならず暁の カネと言う字をいかにあれかし」

 このように「カネ」の和歌の才能が次第に人々に知られるようになり、やがて采女に選ばれ大江雅致の娘として宮中に仕えることになったという。

 また別説には、陸奥守を尋ねて来たが逢うことも叶わず淋しく都に帰る途中、泉に立ち寄りここで数年暮らし或大工と親しくなり女の子を生み、「カネ」別名小式部を生んだ。この子も幼少より母親に劣らぬ才能があり、或る日道ばたで草花を摘んで遊んでいる小式部に向かい

 「小式部よ咲いたる花をただ折るな また来る春は何を眺むらん」

と問いかけたところ、小式部は即座に

 「母様よ露の命をもちながら また来る春を思ふぞかなし」

と返歌したと伝えられている。

 当時和賀川はすぐこの下を流れ、二百米程上流の対岸神楽島との間に渡し舟があり大綱が張られており今も大綱渡と言う地名が残っている。ある日小式部が一人渡舟場で遊んでいるうちに誤って川に落ち死亡、和泉式部は突然の我が子の死に深く悲しんだがどうにもならず、何処ともなく姿を消し消息を絶った。その後村人が幼くして亡くなった小式部わ憐れに思い五輪塔を建てた。その梵字石が日の光と共に廻るので日廻の塔と名付けたといわれたが、今の五輪塔ではない。
 
 「なに人の歌かわからぬが 日廻の塔ありと聞こえて来て見たが 何もなし梨の木かな」

 この歌が言い伝えられている。此処「繰目木」の地名はものの廻る様子を方言で「ぐるめく」と言いつけられたともいわれる。

 また日暮の頃女人が訪れ不幸に相ったので「暮女来」ともいわれている。それから年月が流れ寛文年間(1661〜1672年)松岡氏が藩名により開田のためにここに用水路を堀にあたり土堤の欠漬せぬようと神仏に祈願し守の御託宣により五輪塔を礎石として埋めたと伝説にある。

 現在の五輪塔は明治弐年、長沼欠の下の小原久兵衛なる者が子孫に小式部の様な才女が生まれるよう願い奉建したものと言う。和泉式部旧跡と刻まれている石碑には、安政六年三月改建、寄進者、「周助、普福、新助」とあるが何処の方か今は知る由もない。和泉式部日記によれば長元九年(1036)以後の消息、没年も不明である。

        平成五年七月三十一日  下組史跡を守る会

説明は正面の解説書を拝借致しました。
  「あらざらむ 此世の外の思い出に 今ひとたびの逢う事もがな」         
この歌の詠み手が和泉式部で、平安時代の女流歌人で、木津で生まれ宮仕えの後、木津に戻って余生を送ったと伝えられています。三十六歌仙のひとりで、一条天皇の中宮彰子に紫式部らとともに仕え「和泉式部日記」・「和泉式部集」などの歌集を残し、恋多き歌人といわれています。
和泉式部は幼少の頃より詩歌に親しみ、「和泉守橘道貞」という人物と結婚し、夫の官名をとって「和泉式部」と呼ばれるようになったといわれています。その夫と離別した後、何人かの人物と付き合いましたが、みな若くして亡くなってしまいます。その後、中宮彰子のもとに仕えたことが縁となって、丹後守藤原保昌に嫁入りし、夫の地方への赴任についていったそうです。和泉式部が美人であったかどうかはわかりませんが、多くの男性を引きつける魅力を備えていたことは確かなようです。地方へ行った後の消息はよくわかっていないことから、お墓といわれるものは全国に多く存在し、それぞれの伝説が残されています。
  ※ネットから引用しました...

●和泉式部の墓

<添付写真...2枚>
北上市街から西へ約10qの和賀町竪川目という所に、和泉式部の墓があります。和泉式部の墓は全国に百カ所以上もあるといわれますが、なんとも不思議な話です。地元の人達によって大事に保存されていますが、困ったのが解説の内容です。正面の「解説文」とネットから抜き出しては見ましたが...