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【補足】    ネットから借用

 岩崎城は室町時代の前後約400年間に渡って和賀地方を治めていた和賀氏一族の城で、本城である二子(飛勢)城に次ぐ規模を誇る。別名「和賀盾」とも呼ばれ、南北朝時代には岩崎大炊(いわさきおおい)が居住し、暦応(りゃくおう)4年(1341)には領界を接する煤孫(すすまご)氏・鬼柳(おにやなぎ)氏の合戦があり鬼柳方に討死者が出たという記録も残っている。さらに享禄4年(1531)には和賀氏と秋田仙北の小田嶋党との合戦に岩崎氏が参戦していることから、代々岩崎氏の居館だったと考えられる。天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって和賀氏の領地は取り上げられたが、慶長5年(1600)和賀一族は岩崎城にたてこもって蜂起、南部氏と戦った。鎮圧後は南部氏によって修理され、藩境警備のため南部家家臣が入城している。


※昭和49年に1億6千万円をかけ4層の模擬天守が建てられた。正式名称を「岩崎地区公民館」と言う。内部に和賀町内に残る歴史資料を展示している。最上階からは胆沢平野が一望できる。

【補足2】
公民館に列挙されている歴史上の人物
・岩見潟丈右ェ門

・岩崎弥右ェ門
 岩崎城の城主であり和賀氏の一門である忠親公の後見役角の家老であった。慶長五、六年の南部軍の最後の決戦の際忠親公を説き岩崎城に入城させ戦闘が開始されるや手勢率いて城外に出撃し敵の心胆を寒からしめた。しかし武運つたなく壮烈な戦死をとげ、城と運命を共にしたのである。

・江釣子民部
 和賀家四天王の一人で奥方は岩崎城主岩崎弥右ェ門の娘である。江釣子館の城主であるが和賀軍にかくれもない勇将で大力無双の人であった。南部軍との戦いの際、和賀義忠公の騎乗で堤にはまり危機一発の時、ムンズとその馬の足を抱え上げ無事に救出したことは有名である。現在の江釣子氏の祖である。

・黒沢尻五郎正任
 ※北上市は黒沢尻町が基本で、北上川の近くに黒沢尻柵がある。その地名に関連する人物でもある。

<東からみた岩崎城... 足許に白く光るのは夏油川>
<正面から西の方向に三の丸の跡が見える>
<枡形とよばれる通路跡>

●岩崎城

<添付写真 4+4枚>
●関連追加...岩崎城の麓にある「鈴木将監重信」の墓碑 2010.2.17

岩崎城跡   (現在 岩崎公民館)           平成七年三月   北上市教育委員会

 岩崎城は和賀氏が最後に籠もった城で、和賀川と夏油川にはさまれた台地上にあります。夏油川に面した台地の断崖は、幾度もの川の氾濫で深く削り取られています。城の大きさは南北約300メートル、東西600メートルです。
 台地上には3つの曲輪が東西に並び中央の曲輪が本丸跡で、現在は公民館が建っています。各々の曲輪は空堀と土塁で区画されています。西端の曲輪(三の丸)の西は組小路といわれ、武家屋敷が並んでいました。現在は運動公園になっています。また、台地の北崖下には城内地区がありますが、そこには普段の住まいある二の丸があったところです。城内地区の中央を東西に古道が延び、それに沿って堀や土塁がありの屋敷群があったと言われます。

 慶長五年(1600)、和賀忠親は旧領地を奪い返すために一揆を起こします。南部軍5千数百の大軍を向こうに廻し、僅か1千6百人の和賀軍は互角の戦いを続けたが幕府のとがめを懸念し伊達藩からの応援が少なくなり、兵糧が底をつき南部の総師北松斉の献策による火攻めで城は陥落した。
 落城後忠親はわずかの従臣を引き連れ、仙台に赴き恩人伊達政宗公に災いの及ぶのを防ぐため、自刃して果てます。

 岩崎城が造られた時期は、正確にはわかりませんが南北朝時代にはすでにあったと思われます。天正20年(1592)には、豊臣秀吉の命令により南部氏によって破壊されました。岩崎一揆の後には、南部家臣の柏山伊勢守明助が入場しましたが、その後いつまで続いたかははっきりしません。

【補足】城内は、大手門(正面)跡、搦手門(裏門)跡、堀を渡る橋跡などがあります。本丸・三の丸の周辺にはそれぞれ2メートル前後の高さの土塁(進入を防ぐための土盛り)を巡らせ、枡形(敵の進む勢いを弱めさせるために折れ曲がった通路と進路)を造っています。

●関連追加...岩崎城の麓にある「鈴木将監重信」の墓碑 2010.2.17