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「二子城跡」                             平成四年三月     北上市教育委員会

 別名飛勢城。和賀氏の本城で和賀郡最大の城郭跡である。その全体の規模は約1000メートル、東西約500メートルである。ほぼ中央の通称飛勢の森(現八幡神社境内)は標高約130メートル、沖積地から約70メートルで最も高く、その周囲に平常居舘や家臣屋敷が配置され、東側の沖積地には宿と呼ばれる城下集落が形成されている。
 城主の平常居舘(別名:白鳥館)は、城内の北西隅にあり、100メートル四方が掘割されている。そしてこの南に堀(現在の自動車道路)を隔てて同規模の文珠院という一郭がある。
 詰城たる飛勢の森は南北約100メートル、東西約70メートルで、その西側には空堀をめぐらしている。鎌倉時代に刈田系和賀氏の弟小田島が姓を和賀と改め、ここを本拠地としていた。兄刈田系の和賀氏は、黒岩の岩崎城を本拠地とし、矢張り和賀氏を称し和賀郡半の総領地頭であった。
 南北朝時代二子和賀氏は南朝方に属し、西和賀方面の一族や仙北郡(秋田県)本堂氏(小田島氏支援)と力をあわせ大勢力となっていた。一方黒岩和賀氏側は、支族鬼柳氏側より後継者を迎え鬼柳氏らと共に北朝方として活躍した。応年七年(1400)からは二子城に移り、和賀郡一円を支配する和賀氏の本城として確立されていった。
 室町時代には、和賀氏の家運に消長はあったがそれでも奥州の大名として、奥州探題の御所へ集まれば上席の地位であった。
 二子城の築城年代は不明であるが、天正十八年(1591)義忠の代に豊臣秀吉の奥州仕置きによって廃城となった。いまなお、この地に和賀氏の氏神白鳥神社や重臣達の舘名を多く残しており、当時の権威をしのばせている。

<昭和橋からみた飛勢の森>
<白鳥神社 ...右手が白鳥宮です >
<境内から見た東方向...宿の町並みの方向になる>
<南側の桜並木>
<神社の入り口>
<飛勢神社>
<記念碑 ...裏面の「趣意書」が見られます。 >

●二子城( 飛勢城 )   「現在の名称:市立公園 飛勢城跡」

<添付写真...7+2枚>