●気まぐれ Diary Memo               start '07.12.5

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*** 2010.2.17 鈴木将監重信の墓碑 ***

<添付写真7枚>
【いつもそっと生けてある生け花...これが楽しみなんですよ。これは女将が生けているのだろうか...】
●瀬美温泉へ行く途中に岩崎という所があります。ちょうど秋田高速道路の下を潜るあたりになりますが、気がついていなかった由緒書板が目にとまりました。いつも見逃していたんですね。その昔、和賀氏といっていた頃の岩崎城の一揆騒動の顛末で、有志が作成した「鈴木将監」の墓碑です。下記のものは案内板から掘り起こしました...

●鈴木将監重信の墓 由緒書

 和賀氏は慶長5年(1600)旧領奪還の一揆を起こし、岩崎城に立て籠もり、二年目の春3月も、城攻めの南部勢約5千を迎えました。籠城の和賀勢は約1千5百と言われます。その時、和賀に助力したのが伊達正宗でした。弱肉強食の時代のことです。
 岩崎城の堅固な城構え、必死の守り、しかし戦力の差、ついに落城しました。その時の両軍の戦いぶりが古文書などにいきいきと語られています。とりわけ和賀勢に助力した伊達の重臣、白石若狭宗直の侍大勝鈴木将監重信の討ち死にの様子が際立っています。
 籠城の和賀勢に米を送ろうと大将鈴木将監は、陣頭に立って戦い、敵を散々討ちましたが、南部の武将、富沢日向入道由斎との一騎打ちで夏油川で将監は壮絶な最期を遂げたのでした。「奥羽永慶軍記」(元禄11年1698)に今もこう語り伝えられています。尸(屍)は波に沈んでも、その名は永く残り後の世まで輝いたと。享年43。
 延享元年(1744)、岩崎の人々は和賀氏のために死も恐れず戦った鈴木将監重信の恩義に報いたいと、千刈田のうしろに塚を築き墓碑を建立したのでした。(戒名 眼応了晴大徳 )
 村人はそれ以来、その墓を将監墓(しようげんばか)と言うようになりなりました。その墓碑も区画整理事業のために岩崎台地上の共同墓地に移されたのでしたが、やはり、将監の墓碑は少しでも岩崎城近くにととのことでこの度この地に移したものです。
 平成19年六月吉日 岩崎地区自治協議会 岩崎城を忍ぶ会 建之

※掲示板からの借用です。
【雪の中の夏油川...かなり雪が薄くなってきました。雪質がザラメのような感じです】
【玄関の右手に鎮座してます薬師神社】
【岩崎から夏油へ向かう県道で見かけた「鈴木将監重信」の墓と記念碑。この向かいの右手、小高い所に岩崎城があります..】
【鈴木将監重信の墓碑】
●お断り...家来を指揮し夏油川を渡ろうとしている鈴木将監の馬上の勇士  (鈴木将監百回忌法要記念 虎渓による書画 登米市春蘭亭の許可を得て写す)。後日、右上の古文書部分は再度写真を撮ってきます。
 いつも出かける奥羽山系の麓にある瀬美温泉付近も、春の気配がしてきました。前に掲載した様子とがらりと春めいている感じが読み取れると思います。これじゃなんかまるで「瀬美温泉」のCMみたいな感じもしますが...

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【いつもの通りの玄関】